夢の内にも      前編




「きゃあっ!」

甲高い童の声を聞きつけた青年が馬の足をそちらに向けた。

深夜の街中を徘徊するという悪癖の果て、ようやく邸へと向かっていた途中で
何やら奇妙な一団に囲まれていた童を助ける事となったのだ。

「大丈夫ですか?」

穏やかな問いかけにコクリと頷いたその童は深く薄衣を被っていたため、
顔を確認する事は出来なかったが、身に纏う香と白魚の指がただの童では
ない事を物語っていて青年の興味を誘った。

再び襲われたくは無いだろうと半ば脅すようにして送り届けた先は、
とある貴族の邸だった。






――― ぱちり

蝙蝠(かわほり)を閉じる何度目かの音が響いた。


脇息に物憂げにもたれ掛かった狩衣姿の青年が、パタリパタリと蝙蝠扇を
開け閉めしている。

珍しい・・・。

その様子を庇の間に控えたまま眼の端に捉えて義豊(よしとよ)は首を傾げる。
眼の前にいる若君は義豊の母が乳母として育てた乳兄弟だ。
藤原の支流とは言え、父は大納言さえ勤めたそれなりに高位の貴族で、
父が他界した今は若君の兄である昌宜(まさよし)が検非違使の長官の職に
着いており、そう時を経ずに参議に任ぜられるだろうと噂されている。


「義豊?」

心ここにあらずといった風情で青年が声をかけてきた。

「はい。こちらに控えております」

「昨日の姫ですけれど・・・貴方の事だから、調べてあるんでしょう?」

義豊は母の縁でこの家の家司として内政のほとんどを扱っているとはいえ
貴族である若君とは天と地ほどに身分が違う。
けれど乳母子(めのとご)の自分は勿論、本来であるならば顔を見せる事さえ
憚られるような地下人(じげびと・平民)を相手にしてさえ、
この若君は丁寧に語りかけてくる。
兄の昌宜も身分の上下に拘らぬ闊達な人柄なのを思えば、それがこの家の
家風なのかもしれない。

「姫君? はて、昨日はそのような慎み深き方にお会い致しましたか?」

判っていて義豊は首を傾げる。

――― ぱちり

不快さを忍ばせて再び蝙蝠が閉じられる。

「意地悪な事を言わないでくださいよ。義豊?」

さっさと答えよと眼差しで促されて渋々義豊が口を開いた。

「あの方は先の典薬助(てんやくのすけ)、藤原玄馬様の二の姫にあらせられます。
 父君が先年病にて他界され今は義母上と一の姫とでお暮らしだそうです」

「・・・先の典薬助殿と言えば・・・」

「はい。ご自身が他界される少し前に、ご子息が悪党に襲われて
 落命なされておいでです」

「ふぅん・・・確かそれだけではありませんでしたよね・・・」

知っていたのかと義豊の眉間に皺が寄ったが若君は何かを考え込むように
それ以上問う事は無かった。


――― ぱちり

「出かけますね」

唐突な言葉はいつもの事だ。
義豊が動じる事は無かったが、すでに日も落ちて外は闇が支配する時刻だ。
どこぞの姫君の元に通うならまだしも、この若君に限ってそれは有り得ないだろう。
そうであれば・・・。
義豊の眉間に皺が刻まれた。

「車は目立たぬものを。供は・・・真吾に」

「私が参ります」

主人の言葉を遮るなど本来であれば許される事では無いが、この二人の間に
そのような厳しい上下関係は存在していない。
むしろ至らぬ弟を見守るように過ごしてきた義豊の方が、
邸内では力が強いともいえるだろう。
それが証拠に義豊の強い口調に若君は不満そうにそっぽを向いただけで
拒絶する事が出来ない。

「・・・馬で、ついてきてくださいね・・・」

暫く無言を守った後、諦めたような溜息と共に若君から諾の答えが返された。






――― ガタゴトガタゴト

時折車輪の軋みを響かせながら都大路を牛車が往く。
空にかかる半月程度ではこの皇都を取り巻く闇を駆逐する事などできはしない。
それでも大路の両脇に立ち並ぶ邸宅は、綺羅綺羅しき顕官の邸でもあり
築地塀などに破れは無い。
これが一本辻を曲がる毎に邸の主の格が落ちてゆき、その雰囲気も
うら寂れた気配を漂わせ出す。

若君が命じた邸もそんな寂れた印象を与える一角にあった。

「ここで止めてください」

牛車の中から聞こえた言葉に牛飼い童が従った。

「若君?」

諦めを交えながらも呆れた声音で義豊が首を振る。
そんな声を無視するように牛飼い童の用意した沓を履いて青年が地に立った。
牛車を少し離れた場所まで移動させ、そこで待つように言いつけると
築地の影に身を潜めた若君が空を見上げた。

「そろそろ・・・ですかね・・・」

わくわくと楽しげな声が小さく零れる。
月は中天より僅かに東にあるだろうか。
昨夜もこの刻限だったはずだ。


「ん、・・・しょっ!」

築地の上から微かな声が聞こえて青年が口端だけで笑う。

「ふぅ・・・さぁて、と」

再び頭上から聞こえた声と共に、黒い影が降ってきた。
すぃ、と動いた青年がその影を腕の中に受け止める。

「っ! うぇっ? きっ、きゃぁ・・・ぐっ!」

影が上げかけた声を素早く袖で押さえ込むと若君がその耳元で囁いた。

「姫。そのように大きな声を出されると、家の方に知られてしまいますよ?」

「んっ・・・・・・」

「大人しくしてくださいますか?」

かけられた言葉に暴れるのを諦めた影が若君の腕の中でコクリと頷いた。
それを確認してその口元から袖を外し、影の足を地へと下ろす。

「あ・・・貴方は?」

月明かりの中に立つ影は顔を見せない。
けれど華奢な肢体と細い声が自分の予想通りの相手だと若君に知らしめた。

「昨夜もお会いいたしましたね。姫君」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

上半身をすっぽり包むように被衣(かつぎ)で覆われたその影が
困惑したように首を傾げた。

「そのように警戒なさいますな。私は左近衛府の少将、藤原房良と申します」

その名乗りを聞いて、影がパサリと被衣を滑り落とした。
顕になった白い面を見つめたまま房良が微笑みかける。

「そう。姫君の兄上の上司のそのまた上役が、私なのですよ」

姫、と呼ばれた少女の唇が何か言いたげにふるりと震えた。





ゴトゴトと牛車が揺れる。
車内に掛けられた釣り灯篭の明かりが地味な二藍の水干を纏った姿を照らしている。

「何ゆえ・・・私の事を・・・」

か細い声に房良が微笑みかける。

「どれほど隠そうとも、雲間から漏れ出でる清けき月光の如く麗しき姿を
 秘す事など出来ましょうや」

自分を賛辞する言葉を耳にした途端、不快げにふいと顔を背けた
二の姫の姿を目にして青年の頬に苦笑が浮かんだ。

「・・・お気に召しませんか? では真実を・・・」

その言葉に顔を上げ、じっと房良を見つめる二の姫の瞳は澄んでいる。
この瞳を前に偽りを言う気になれず、房良が口を開いた。

「香は隠しようもなき事。以前知る辺より伺っておりました。先の典薬助殿の
 一の姫は香をよくなさるお方で、殊に梅花を好まれると。その折に興味を
 惹かれて貴女の兄上に聞かせていただいた香が、昨夜の貴女から漂った。
 ・・・そういう事です」

理由を知ればそれだけの事ではあるが、邸で女房勤めをしていれば移り香の如く
香など身に染みる物でもある。
男童姿の自分を二の姫と確信した決定的な理由が見えずに少女が首を捻った。

くすくす、と青年が喉の奥で笑みを零した。

「噂をね、伺っていたのですよ。先の典薬助殿の二の姫は先祖返りでも
 なさったのか、少ぅし変わった性癖をお持ちだ・・・とね」

この姫君の家系の数代前には高名な陰陽師の血が混じっていた。
十二神将を使役し、津波さえ押し止めたという伝説を持つかの陰陽師は、
今でもこの都では恐れと共に尊崇の思いで語られる存在だ。

その血が濃く出たとでもいうのか、先の典薬助の二の姫は人ならぬ者を視る
能力を持ち、闇の眷属を従えんと邸から飛び出しては陰陽師の真似事を
なさろうとする、物狂いとも言える異端の存在だと実しやかに囁かれていた。


やんわりと言葉を濁した房良の自分へ向けた気遣いを悟って姫が微笑んだ。

「物狂い・・・と言われている事は存じております。確かに変わり者なのは
 間違いありませんもの」

ほんのりと浮かぶ笑みは深窓の姫君の慎ましさを確かに備えている。

「けれど・・・今、私が為したい事はそれとは無関係です」

すうっと笑みを隠した面には揺らぎようも無い決意が垣間見れて、
房良は自分の予想が正しかった事を悟る。

「私の役職はお話いたしましたし、私の兄は検非違使の長官を任じられております。
 お力になれると思いますよ?」

青年からの思わぬ申し出に姫の眼が瞬いた。

「なぜ?」

見知らぬ相手に手を貸す理由がわからないと、はっきり面にあらわした問いが
少女の心根の素直さを示している。

「私の所属する左近衛府は内裏と何よりも主上を守衛する事が第一ですが
 不審な形で落命された貴族の事を放置して良いわけではありません。
 まして兄は京全ての犯罪を取り締まる事を勤めとしているのですから」

これも仕事の一環と思っていただければ・・・、と言外に含ませた房良が
口元を蝙蝠で隠した。

――― コホン

小さな咳払いが牛車の外から響き、物見窓を薄く開けた青年が姫を振り返った。


「着いたようですよ?」



牛車が止まったのは京の町中でも殊に治安が悪いと言われる場所だった。
青年の後に従って恐々牛車を降りた姫に笑い混じりの声が掛けられる。

「恐ろしかったら車で待っておいでなさい」

「いえっ、大丈夫ですっ!」

自分を侮られたような気がしてつい強気な口調になってしまう。
それを穏やかに見ていた房良が、ふと気づいたように尋ねた。

「名を・・・」

「はい?」

「名を教えていただきたいのですが・・・。いえ、真名でなくて構いません。
 このような場所で“姫”などとお呼びしては、困った者共を引き寄せる事と
 なってしまいますからね」

貴族の姫にとって真名(本当の名前)を教えるのは夫となる者だけだ。
それ故に真名を呼ぶ事が許されるのは親か兄弟、そして夫である男に限られている。

「セイ・・・。セイ、と申します」

星の瞬きほどの声で返されたその言葉に房良が頷いた。

「セイ・・・承知いたしました。この場に置いて私の事は“総司”とお呼びください」

「総司・・・殿?」

「ええ。ここでの通り名のような物ですよ。そこに控える義豊は“歳三”と」

「歳三殿・・・」

口の中で幾度も総司、歳三、と繰り返す。
その素直な様子を房良は柔らかな視線で見つめていた。





今にも崩れそうなあばら家の筵を捲り上げて房良が足を踏み入れた。
続いて入ったセイが、強い癖のある獣脂の匂いに眉を顰める。

ぼんやりとした灯りに浮かぶ室内は狭く、一瞥しただけで
その場にいる者を確認できた。
部屋の中央に座していた禿頭の男が房良に向かって声をかける。

「よう、総司。久しぶりだな」

にやりと笑んだ男の脇から驚きの声が上がる。

「そなたっ!」

「一殿っ!」

腰を浮かせた男を目にしたセイが目を見開いた。

「はじめ、殿? お知り合いですか?」

落ち着いた房良の言葉に我に返ったセイが頷いた。

「兄の・・・亡くなった兄の友人で、幾度か屋敷でお会いいたしました・・・」

「ほぅ・・・」

改めて見やった房良の視線の先では狩衣姿の男が、
食い入るようにセイを見つめていた。
その視線を遮るごとく身体を割り込ませた房良が、男の注意を自分に向けさせる。

「この人の兄君のお知り合いという事でしたら、それなりのお方でしょうか」

身に纏っているのは黒に近い薄墨色の狩衣だ。
正装でない限り、相手の位階は見ただけではわからない。
けれどセイの兄の知人だったというなら、朝廷に関わり有る人物なのは
間違いないだろうと問いかけた。

「陰陽寮に属している。斎藤一と申す」

淡々と感情を乗せない名乗りに房良が鷹揚に頷いた。
その仕草だけで男には相手が高位の貴族だと察せられた。
同時にこのような場所で相手に名乗らせる事は互いに不都合を
呼び込みかねないという事も。
すでにそれを感じ取っていたはずのこの家の主である禿頭の男が
房良とセイを手招いた。

「名乗りはいずれ他所でやりゃあいい。こんなトコまで来たからにゃ、
 何か急ぎの用件なんだろう?」

「ええ。この人の兄君と父君の事で、少し・・・ね・・・」

禿頭の男の前に腰を下ろした房良が僅かに声を潜めた。
暗く薄汚れた室内にちらちらと目をやりながら恐々と房良の背後に
腰を下ろしたセイを見ていた一の片眉が僅かに上がった。
以前からの顔見知りである自分よりもセイが近しく感じているのが
眼前のこの男なのだと示されたような気がしたからだ。

「・・・お前もかよ、総司。コイツも」

と一を顎で示した男が手元に置かれた瓶子を呷った。
それを口元から離したと同時に大きく吐いた吐息から狭い室内に酒の香りが漂った。

「同じ用件だったんだがな。先の典薬助、藤原玄馬の不審な死と、
 その子息祐馬殺害の下手人に関して調べて欲しい・・・と」

チラリと一に視線を向けて男が再び瓶子を呷る。
中身が残り少ないのか、ぽちゃんと土間に軽い音が響いた。

「調べられねぇ事はねぇがな・・・」

その言葉と同時に房良が小さく頷き、それを受けて義豊が男の前に
新たな瓶子と布の包みを置いた。
その包みの中を確かめた男が一瞬相好を崩し、次の瞬間鋭い眼差しで房良を見据える。

「五日・・・で、どうだ?」

「嫌な予感がします。三日で」

「おいおい、無茶を言うなよ」

「三日のうちに。できますよね? 良順先生?」

優しげとすら言える口調でありながら、命じ慣れた者特有の強制力を持った言葉に
良順と呼ばれた禿頭の男がしぶしぶ頷いた。

「ああ。何とかするさ・・・。知らせはコイツをやる。目的は一緒だ。
 後は互いに相談すりゃいい」

その言葉に房良と一が強い眼差しを交わした。




                                       中編